【祖父の終戦】

 


8月15日は終戦の日。
ポツダム宣言受諾後、1945年8月15日第二次世界大戦が終結した日で、戦没者を追悼し平和を祈念する日である。

 

本当にこの日、戦いは全て終結して平和になったのだろうか?
私は子供の頃からこのことを疑問に思っていた。

それは、祖父から戦時中の話を聞いていたからだ。

 

大陸での戦いで負傷した後、除隊して出雲の家へ戻り、田畑を耕していた祖父は、再召集されて、高射砲の照明の助手として、千葉で終戦を迎えた。

 

「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び……」
という、あの有名な玉音放送を終戦当時の祖父は聞いておらず、また、そのような重大な放送があること自体、知らなかったそうだ。

 

玉音放送の正午から、一体どのくらい時間がたったのか、隊長さんがやって来て、部隊は解散となった。

 

「隊長さんから、最後に何か特別な挨拶があったのか」と祖父に聞いたが、何もなかったという。
隊長さんは、遠方へ帰るための旅費なのか、現金をそれぞれに手渡し、ただ「これにて解散」とだけ言って解散となった。

 

千葉から出雲まで帰るといっても、果たして汽車は動いているのか、さっぱり状況が分からない。
先に運行状況を調べに行っていた人の報告によると、「上野から京都までの汽車は動いているが、京都から出雲までがどうなっているかは分からない」とのことだった。

 

「京都から先は、歩いてでも出雲まで帰る! 」

 

そう言って祖父は、混乱の中、上野から汽車に飛び乗った。
京都までたどり着くと「ああ、もう帰ってきた」という気持ちになったという。
幸い京都から出雲までの汽車も運行していたので、無事に出雲まで帰ることが出来たそうだ。

 

だが、本当は明るいうちに出雲へ到着していたのに、戦争に負けたことを恥じて、すぐに家へ帰ることが出来ず、暗くなるのを待ってから帰ったという。
そして祖母は、無事に帰って来た祖父に海苔巻きを作ったそうだ。

 

終戦の日というと、玉音放送でピタリと終わったようなイメージがあるが、祖父の話から、8月15日を過ぎても、戦いはまだ続いていたのではないかと密かに思っていた。
だが、疑問に思いながらもそのままになっていた。

 

その後、随分たってから、千島列島の占守島(しゅむしゅとう)の戦いなど、やはり8月15日を過ぎた後も戦いがあったことを知った。

 

特別暑い今年の夏は、なぜか祖父から聞いた終戦の日の話が、私の心に強くよみがえってくる。

 

穏やかで何気ない日常の幸せを守ることが出来る日本であってほしい。

 


祖父が好きだったパイン缶をお供えして。
2018年8月15日  しらみずさだこ

 


【掘ってごせ】

 

人づてに聞いた、昔あったというお話。

 

昭和5年のことだったそうな。

ある山の麓に、蚤でも蟻でも戸を開けて放してやる、殺生の嫌いなお爺さんがありました。

 

いつの頃からか、お爺さんが寝ている時に、「掘ってごせ、掘ってごせ」という、何かを掘って欲しいという意味の言葉が聞こえるようになりました。


「どこを掘りゃあいいだぁか。この声は何だあ?」


お爺さんは、初めのうちは聞き流していました。
ところがある晩、同じように耳元で聞こえると、ふいに起き上がって、山道を登った先にある畑を掘りに行きました。けれども、何もありはしませんでした。

 

それから何日も何日も、憑りつかれたように夜中に山道を登っては、畑を掘り続けました。

 

そのうちに、一緒に住む息子夫婦も、お爺さんの奇妙な行動を不審がるようになり、ある晩、そっとお爺さんの後をつけて行きました。

しかし、その晩のお爺さんは、なぜかいつもと違い、若い息子夫婦がついて行けないほどの速さで、山道を登って行きました。

 

月明かりの晩だったが、一天にわかにかき曇り、大雨となりました。降ったかと思うとすぐに止み、山の上にある畑へ、天からひとすじの光が差し込みました。

お爺さんが光の差す方へ近づくにつれ、「掘ってごせ、掘ってごせ」という声が大きくなる。
そして、光が差す畑を掘ってみると、光り輝く物が出てきました。


一つ目は「どんぐりの実くらいの大きさの金の玉」
二つ目は「阿弥陀如来の像」
三つ目は「一本足のつがいの鳥」
四つ目は「金で出来た5㎝ほどの豆本。開いた状態で出てきて、そこには文字が書かれていました。右のページに阿弥陀如来、左のページに金両万両」


お爺さんは、畑から出てきた4種類の品を持ち帰ってお祀りしました。

後日、噂を聞きつけた人々が山を掘りに行きましたが、何にも出てきませんでした。

 

その山があるあたりには、昔はいくつかの寺があったから、そこの品が、大雨か何かで流されて埋められたんだろう。そう人々は噂したそうです。


おしまい。